ヴィチェンツァの旅! 「パッラーディオの建築博物館」 2001.12.24 |
ヴィチェンツァ編 16世紀、ルネッサンス末期に活躍した、偉大な建築家、アンドレア・パッラーディオ(Andrea Palladio)が設計した建造物が数多く残された街。 パッラーディオ通りを歩けば、彼が目指した理想の街を体感できます! それでは早速、ヴィチェンツァへ出かけましょう!
街の中心地にある広場。そびえ立つのは、12世紀に建てられた、ビッサーラの塔。 |
こちらは、パッラーディオの未完の傑作、ロッジア。ヴェネツィア総督府として、1571年に建てられた。 |
街のいたるところが、まるで、建築博物館。 どこを切り取っても、絵になる風景です。 |
ヴェネツィアのサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会(Chiesa di San Giorgio Maggiore)も、彼の作品なのですが、実は、ヴィチェンツァとヴェネツィアには、当時、筆舌に尽くしがたい確執が存在していたのです。! |
海上都市のヴェネツィアには、農作物を作る畑も人手もなく、あるのはただ商いだけ。文化も宗教も二の次で、商売あっての都市だったのです。 しかし、その栄華も、長くは続きませんでした。貿易の主導権を、オランダに奪われ、ヴェネツィアは落ちぶれていくばかり…。 そこで、とうとう陸に上がって、近隣の都市を支配下におさめる作戦に打って出たのです。 そのとばっちりを最初に受けたのが、何を隠そう、このヴィチェンツァ。あっさりと征服されてしまい、街の中心には、その証として、ヴェネツィアのサンマルコ広場とそっくりのモノを作らされてしまうのでした。 突然に、訳の分からない広場を押し付けられ、精神的にも文化的にも屈辱を受けたヴィチェンツァの貴族達は、「何とかして復讐できないか?!」「ヴェネツィア人の嫌がるモノは何だろう?!」などと、あれこれ考えます。 しかしながら、財力に劣る彼らにとって、戦えるモノと言えば、文化だけしかなかったのです。 仕返しのための建築家、パッラーディオ誕生! |
アンドレア・パッラーディオ Andrea Palladio (1508‐1580)
本名は、アンドレア・ディ・ピエトロ 。パドバ生まれ。 ヴィチェンツァの貴族、ジャン・ジョルジョ・トリッシノ Gian Giorgio Trissino に才能を見出され、ギリシャ悲劇の復讐のシンボル「パッラーディオ」の名を与えられた。 もともとは普通の石工・左官職人だったその男は、トリッシノによって、ローマに送られる…。 秘密の指令を胸に秘め、ローマで勉強をしたパッラーディオ。彼に課せられた使命は、「古代ローマのイメージを色濃く残しながらも、全く新しく見える建築様式の創造」だったのです。しかも、あまりお金のかからないモノ…。パッラーディオは、苦難の末に、ついにその答えを見つけたのでした。 ローマから帰ってきた彼のもとには、次々と仕事の依頼が舞い込み、個性を存分に発揮した、パッラーディオ様式の建造物が、ヴィチェンツァのあちこちに建ち始めます。 実は、ヴェネツィアにとってローマは、目の上のたんこぶのようなもの。ずっと商売に明け暮れ、独自の文化に乏しい彼らは、歴史的にも文化的にも中身の深いローマの存在に、コンプレックスを持っていたのです。そして、頑ななまでにローマ文化との接触を避けてきました。 しかし、そのヴェネツィア人の大嫌いなローマが、次々とヴィチェンツァの街に現れる…。しかもそれは、当時、最先端で大人気の建築スタイルであったため、止めようにも止められない…。 支配下の国から受ける、まさかの復讐劇! ヴィチェンツァの受けた屈辱は、今、晴らされたのでした! |